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楽器としてのコンピュータ2008-11-18 Tue 07:26 電子音楽の研究ではアメリカのスタンフォード大が有名なのだけれど、そこのラップトップオーケストラの公演の様子。 macbookを「楽器」と考えて、キーボードやトラックパッド、加速度センサとかmacbookに内蔵の機能を最大限活かして、1台で完結するような方向性。 オーケストラの楽団員であれば一人が一つの楽器を受け持ち、音を奏でるが、 SLOrkもそれに準じて、PAスピーカーを使わず、DIY精神あふれる「サラダボウルスピーカ」を各メンバーのところに設置している。 せっかくmacbookにもスピーカーついてるんだから、それ使えば良いのに。。 とか考えると、 『音楽が目的なのだからスピーカーくらいはしっかりしたものを』 と言われそうだが、だとしたらキーボード等の入力インターフェースはどうだろう。 内蔵スピーカーの質に比べたらマシか。 コンピュータ(だけじゃないかもしれないが)の機能の質っていうのは、使用頻度に応じて設定されるべきなのかもしれないと、ふと思った。 よく使う機能は質の高いものを。 逆にあまり使わないものは質が低くても良い。 ノートパソコンで言えば、モニタは常に見るし、キーボード、トラックパッドも頻繁に使うけど、音を聴く必要つまりスピーカーの需要はそれらに比べれば少ない。 とすると、SLOrkは音を出す機能の弱いもの(macbook)を「楽器」として考えているということにならないだろうか。 楽器に必要なものは入力インターフェースのみ?音は別のスピーカーから出せば良い?? いまどき電子楽器なんて音は外付けのスピーカーに接続するのがあたりまえだけど、 それに従って「入力機能」と「出力信号」が別の次元のものになってる。 古典的なアコースティックな楽器の場合、そうはいかない。 入力機能(弦楽器の弦,弓、管のマッピetc)は音を出す発音体そのものだ。 弦の押さえる位置を変えることは、発音体の長さを変えること。 たとえばコンピュータで2kHzの音を出して、その音を1/2にして1kHzにする。 発音体はスピーカーのコーンなわけだが、コイルに流す電気の周波数を1/2にするわけで 人間が直接スピーカーに触れることはない。 もしも、スピーカーのユニットを1kHzとかの高速で動かすことのできる人がいて、「自力」でスピーカーから音を出すことができる人がいたら、その人はスピーカー奏者=スピーカニストとでも呼べるかもしれない。 しかし、現実にはユニットを振動させるのは電気であり、スピーカニストはコンピュータである。 では、人間はなんなのだろうか。 人間はスピーカニスト(コンピュータ)に「こういう音を出しなさい」と命令することができる。 そうすることではじめて、スピーカーの駆動に必要な処理をしてくれる。 それは楽譜、もしくは作曲家と演奏家の関係に似てはいないだろうか。 演奏家は作曲家の書いた楽譜に従って楽器を演奏し、音を奏でる。 コンピュータは人間の書いたプログラムに従ってスピーカーを駆動させ、音を出す。 電子音楽において人間は演奏者であることはなく、ましてコンピュータが楽器であることはない。 人間は正しく演奏されるような楽譜=プログラムを作らなければいけない。 そしてコンピュータは楽器ではなく、楽譜に忠実な演奏家として、楽器であるスピーカーを鳴らすのだ ってそんなわけないからw |
小室哲哉とAuto-tune2008-11-06 Thu 15:18 小室哲哉が詐欺容疑で逮捕。 今後の捜査で事件の全貌が明らかになることを期待。 さてさて、小室プロデュースの90年代前半のglobeの曲を感慨深く聴いてみる。 《departures》のkeikoの音程がありえんくらいずれているじゃないか! 当時Auto-tune(ピッチ補正プラグインの代表)はなかったの!?と思い調べてみると初代Auto-tuneの発表が1997年。 そして、《departures》のシングル発売は96年。 他の曲はどうだろうと思って聴いてみる。 朋ちゃんの《I'm proud》(1996年)-2008年現在の耳には、このピッチ感はアウト。。 TMNの《BEYOND THE TIME 〜メビウスの宇宙を越えて〜》(1988年)のサビ前の転調のところはエディットしてるっぽいが、ピッチはまったく問題なし。 ピッチ補正という観点からTMNを見てみると、宇都宮隆の歌手としての能力の高さがよくわかる。 じゃあkeikoは・・・。 『globe2 pop/rock』より《judgement》を聴いてみると、ピッチ補正してるような。。 200年以降の小室の曲をはじめてちゃんと聴いたけど、90年代の頃のkeicoや朋ちゃんのような生っぽいvoは薄くなって、クラブ的な無機質なvoになってる。 perfume的な流れの後を追うより、ダンスサウンド×ピッチ補正に頼らない生(人間性が見えてくる)voという90年代のTKサウンドの進化を見たかったな。 復活してくれることを願います。 ちなみに俺のシンセはyamaha EOS-B2000。そうTKモデルですよ。 |
深夜5時の寝言2008-11-02 Sun 04:47 《Seasons of love》※意訳しすぎ、曲解しすぎの感あり。 525600分 525600の大切な瞬間 525600分 どうやってはかる? 一年という長さを。 何度夜明けを迎え、夕暮れを見て 真夜中を過ごし、何杯コーヒーを飲んだだろう、 何インチ伸びた?何マイル歩いた?何回笑い、けんかしたろうだろうか。 この525600分 どうやってはかろう? 生命のなかの一年を。 愛はどう? 愛で考えてみない? 愛をものさしにしてみようか? そうだ、愛で一年はかってみよう。 愛でいろどられた一年がある 愛で満ちあふれた季節 525600分 525600の旅の計画を立てよう この525600分 どうやってあの子やあいつの人生を量ろう? あの子が手にした真実で? それとも、あいつの涙の数? あいつが壊してしまったつながりの数? それとも、あの子が生きた道のり? もう歌う時間だ 私たちの物語は決して終わらないけれど さぁ祝おう 仲間たちの人生の一年を忘れないでいられることを 愛を忘れないで (あなた、そうあなたが憶えていて) 愛を憶えていようよ (人生は神様からの贈り物だってこと、あなたは知っているでしょ) 愛を忘れないで (愛を分かち合おう、与えよう、広げようよ) 愛で生命をはかってみよう (はかろう、愛というものさしであなたの生命を) 愛でいろどられた季節。 愛で満ちあふれた季節。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一年(時間)のながさ=愛の大きさ アインシュタインが相対性理論の比喩的な説明で 「熱いストーブの上に座っている1分間は1時間ほど長く感じるが、好きな子と一緒にいる1時間は1分間ほどに短く感じる。それが相対性だ」 ということを言ったらしい。 人によって時間の感じ方は違う。ごもっとも。 僕があの子と一緒に過ごした時間は本当に長くて、本当に短かった。 長いとか短いという感覚じゃなくて、もっとやわらかくて触覚的でいろんな思いが詰まった感覚。 それが愛なのかな。自分の場合は「恋愛」ではなく「友愛」だと思うけど。 「友達」っていうより「仲間」の方がしっくり来る。 それは色んなコンサートやCDや映像を、同じ志を持ってあの子と一緒に作り上げてきたからだと思う。 いつものソリスト、指揮者、インペクに、気心の知れた演出、自分もいつもの役回り。 曲は決まっている、みんなの定番。 いつもと同じ仲間で、いつもと同じ曲をやる。 でも、あの子だけがいない。どこかにいるんじゃないかと、ついリハの時に見回してしまう。 もちろんいるわけはないんだけど、いる気がしてしょうがない。 どっかにいて何か動いてくれてるのかな。ご苦労さまです。 やっぱり、今回のコンサートは僕にとってはものすごい特別なものだ。 正直、今回フェーダーを触る資格があるのは世界中で自分だけじゃないかと思う。 手伝ってくれてる人たちには申し訳ないけど、あの子と一緒にやってきた人間にしかわからない感 覚だとは思う。 決してあの子のためにするんじゃない、いつもどおりあの子はそばにいる。 あの子と一緒にやるんだ。 |
mxj2008-10-23 Thu 03:39 max/mspのexternalのひとつであるmxjと格闘中。 コマンドラインはニガテだ。。 |
某電子音楽のコンサート終了2008-10-20 Mon 03:10 1年越しで関わっていたコンサートがようやく今日終了。 肩の荷が下りる感じはするが、どこかスッキリしない終わり方だ。 本当にシステムのポテンシャルを十二分に引き出せたのか。。いや、たぶんできてない。 システムを設計するのは難しいことではない。 難しいのはシステムのポテンシャル(可能性)を引き出すようなソフトを作ることができるかどうかだ。 普通の調整室のようなスタジオで、モニタースピーカーを使って確認しても限界がある。 持ってきた素材をそのまま、システムに入れてる人が多かったけれど、それで良いのだろうか。 いや、システムに合わせてミキシングそのものを変える必要がある。 「合う音」と「合わない音」がある。スピーカーの特性に合う音、空間的な定位に合う音、もちろん音楽的な流れの中で合う音、そして合わない音があると強く感じる。 作曲家が楽譜に書き込む音を選ぶのと同じような感覚で、それらの「合う」音を探さないとダメな気がする。特性とか主観評価とかそういう一元的な話ではなく、これは音楽なのだ。けして何かの結論を求める科学的な実験ではない。音楽の流れの中で、人の「感性」の部分に届く音を作る。それは物理的、科学的な特性だけでなく、もっと全感覚的(サウンドスケープ的とも言える)な感覚で取り組む必要があるんだ。うん、それは今日確信した。 僕はライブに行って泪が出てきそうになったことが、何回もある。ナタリーのライブはいまでも目に焼き付いている。やっぱりそれは、物理的な特性で説明できることじゃないよね。 はあー。 課題が残るなぁ。 |

